izaharu’s blog

福岡大学/商学部 商学科/モリタゼミ所属

📚 哲学から考える差別(2)

【本日の問い】

 

①われわれは自分が愛着を持っているコミュニティーに対して、他人にも同じように愛着を持っていてもらいたいと思うのはなぜか?そしてそれは良いものなのか、制御すべきものなのか?

 

②怠け者のB君を「人間として」尊敬しなさい、という言葉はなぜ問題なのか?

 

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われわれは自分が愛着を持っているコミュニティーに対して、他人にも同じように愛着を持っていてもらいたいと思うのはなぜか

 

 私たちのグループは「そもそも愛着をもってほしいとは思わないのでは?」から始まりました。”愛着”議論は昨年たくさん交わしたので、容易に使うたぐいの言葉ではない…という警戒心があったのかもしれません(笑)それくらい”愛着”の本質的意味を私たちなりに考えた期間があるから、今回の課題はあの頃の自分とは違う見方ができているのだろうとふと考えます。

 

 今回の文章では愛着をもつコミュニティーの対象は「家族」「故郷」でした。家族大好き人間の私として…率直に述べてやはり愛着の強要は求めてないという意見です。別に理解してくれなくてもいいけどな💦と純粋に思います。

 ただしこのことを世間でおっぴらに話せる環境が整っているというのは事実。それが「正しいとも間違いとも示さないルールの中で確立している正義」のようなものが蔓延る社会だからこそ「家族愛」や「郷土愛」が社会の内に成り立っているのかと改めて再認識しました。家族や故郷というものに対する愛着を強要していなくても、それを大切にしている人が大切にしている人と出会ったとき「あなたはあなた、私は私」という風に割り切れるとは思いません。きっと、心のどこかで「可哀そうな、もしくは残念な人」でしょう。それこそ目に見えない差別そのものなんですね🌀

 

 それを教育のせい一択にするのは少し無茶があるような…②の部分で書きます。

 

 "差別"の話をしているとそれは主観的な気持ちであるはずなのに、社会や集団、組織など対外要素との関わり話に何度も戻ってきます。それで安心する感覚を求めて共有したくなるのだと私は考えます。縛られてるようで縛っている感じが人間らしいと思いました。

 

 

 他グループのスライドを見ていると「個人的な愛着コミュニティーに対する共感は✖」という意見が書かれていて、確かになと感じました。それは自分という基準があり、確固たる地位を築けているから。

 こちらは社会に認められているモノ(家族、故郷など)とは少し違う概念?むしろ認められていないからこそ、自分という裏切れない基準があるイメージを持ちました。承認欲求を超えて、自分だけの価値を大切にしたい気持ちもあるのかな…依存する対象が異なる論はグループでも話し合っていて、例えば文化祭の委員になった時の組織に対する愛着と共有したい気持ち(強要?)は責任なのか、達成感なのか。難しくて、②に話が移ってしまいましたが(笑)

 他を切り離したり、共感を求めて歩み寄ってみたり…つくづく人間は難しい😔

 

 

怠け者のB君を「人間として」尊敬しなさい、という言葉はなぜ問題なのか?

 

 グループではあまり話せなかった②。

 

 テキストではB君ではなく、A君に注目して「軽蔑」や利害関係を超えた「倫理観」について書かれています。上記や今回の哲学対話で中心話題になっている、制度では管理できない”悪意”による差別の芽の部分。”外形的には見せない軽蔑”という言葉が初見時よりもズシッと心に響きます。

 人間の手には負えないと早々に知ってか諦めか、そういう社会で柔軟に生きていけるような教育の究極が「みんな違ってみんないい」ならしょうがないのではないかと思う。違っていい社会への強要は確かに矛盾を感じるし、結局軽蔑や劣等感を生み出すとしても…今の私にはそれを受け入れていく教育しか知らないからうまく答えが出せないのがもどかしい。できる人とそうじゃない人、できない人。

 

 差別を推進することはなくとも、批判するでもない自分。私の拙い言葉でいってしまえば、そのバランスという簡単な集約されてしまうんです…仮に皆が協力的で比較せずとも社会としての集団意識を持たなかったとしたら、すごく独裁的な生活になってしまう気がする。(極論すぎだけど)やっぱりどこか批判する見方が必要だよな…そこに攻撃性を持たせてはならないのか?でもでもそれは教育や環境でどうにかなるものなのか…同じ場所でぐるぐると回っている感覚です🤔

 

 

 最近は何かと順位付けが問題視され「かわいそうだから」という意見が表立って取り上げられている。それを真に受けてボーとニュースを見ていたけど、今ならこの問題に立ち返ってもっと考えられる気がする。それが正しいとか間違いとかの判断にいくまで、こんなにも複雑な課題だと3週間かけて学べたから。

 

 ぐるぐる頭を悩ませながら、罪責感の意味が差別の紙一重、その判断材料になるのではないかと考えました。比較して突き放して、受け止めての繰り返すなかで組み立てられていく基準が罪責感に繋がると思う。きっと心のどこかで積もっている罪責感をいかに実感できるかというか。いやでも文面では書けるキレイゴトなんだろうな。

 

 

 難しい課題に取り組むんでいると、ふと話を盛って話しているのではないか?と分からなくなることがあります。ある意味言葉に頼ってつくろっているという…今回もその癖がでないように慎重に対話していったつもりだけどうまく出来たという実感はないです😫