izaharu’s blog

福岡大学/商学部 商学科/モリタゼミ所属

📚 哲学から考える差別

 

 授業でこの話を初めて読んだときは(Ⓐ部分のみ)思いっきり訳が分からなかった。理解が追いつかないので当然のごとく『メウロコ・スゴドウ・ナツイカ・ハゲバツ』のリアクションもとれなくて…

 

 Ⓑ以降は例も多く、どうにか理解できそうな文章でした。しかしそこから哲学をどうやって考えていけばいいのかわからず、とりあえず筆者の意図を知る、自分の頭を整理するために雑ながらバババババーァッとノートに書きました。

 

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 整理した結果…やはり難しい💦

 

 

 『悪意の完全なる排除への懐疑』と『”悪意”ある差別への不信感』が述べられていると私は考えました。

 

 『悪意の完全なる排除への懐疑』はなんとなく理解できたように感じます。一方があることでもう一方が存在し、それは尊敬と軽蔑でもいえることで文化の芽生えへとつながるということ。確かに納得です🤔

 

 ただ後半の家族至上主義やアイデンティティの部分を考えるときに、筆者の差別概念が理解できなくなりました。潜在的な加害者という言葉を使っているのがすごく印象に残っていて「同情さえ差別なのか」と考がえるようになり、ますます頭がぐるぐる迷走します。

 

 個々であり、集団でもある私たちはそれを確立することで愛が生まれると同時に差別の温床になる。教育論で歴史的にみても日本が「家族」による繋がりを非常に重視してきたことは学んでいました。「家族」の存在を自己批判精神の喪失とまで言われると何とも悲しい気持ちになってしまう。(この悲しみの中にもどこかで「そうは思わない人」を軽蔑しているのか?🧐)

 

 集団に帰属する、している認識があるからこそ自分が自分として成り立っているのなら差別が生まれるのは回避しようがない事実。筆者の言う通り意識的なものも外的な要因によって変化させるのは不可能だと考えます。「善」「悪」の狭間で多数派が採用されて常識になっていくことが文化であるならば回避しようがないのでは。

 究極的に考えると文化が生まれるからとかではなく、人間は主観的でしか考えらない生き物なのだからという結論まで考えるようになりました。(客観的なものだって人間というフィルターを通したものだから主観と仮定してます)

 

 そもそも「不快」という概念を差別として一丸に丸め込むのもどうなのかとも思いました…掘り下げたい考えだけどうまく言葉にならない😖一要因として嫌悪感を抱いている状況だったらまた別の概念があるような気がします。いや、パーソナルな部分に集中して個人をみていると考えたらそれは軽蔑であり差別なのかな。難しい…

 

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 教育現場の問題が最後に述べられていますが、それぞれの意思を尊重しようと個性を大切にしようとも、必ず指標を示さなければならない場面は出てきます。そうするとどうしても多数派と少数派に分かれてしますし、順位や地位もあらわにならざるを得ないと思うのです。

 こんな私の考え方では「みんな個性があって素晴らしいこのなんだから差別するのはダメよ!」のセリフにはなんの効力もないじゃん。それこそ”穏やかなカタチで全ての人に共感をもとめる、凄まじい暴力”ともとれるのでは?

 

 

 最後に…自分の思いの6割くらいしか書けてないので不完全燃焼がすごい。哲学への理解を上回って哲学への自分なりの見解を述べることの難しさを痛感しました。

 

 いや〜悔しいなぁ。難しいなぁ。