izaharu’s blog

福岡大学/商学部 商学科/モリタゼミ所属

📚 哲学から考える差別(2)

【本日の問い】

 

①われわれは自分が愛着を持っているコミュニティーに対して、他人にも同じように愛着を持っていてもらいたいと思うのはなぜか?そしてそれは良いものなのか、制御すべきものなのか?

 

②怠け者のB君を「人間として」尊敬しなさい、という言葉はなぜ問題なのか?

 

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われわれは自分が愛着を持っているコミュニティーに対して、他人にも同じように愛着を持っていてもらいたいと思うのはなぜか

 

 私たちのグループは「そもそも愛着をもってほしいとは思わないのでは?」から始まりました。”愛着”議論は昨年たくさん交わしたので、容易に使うたぐいの言葉ではない…という警戒心があったのかもしれません(笑)それくらい”愛着”の本質的意味を私たちなりに考えた期間があるから、今回の課題はあの頃の自分とは違う見方ができているのだろうとふと考えます。

 

 今回の文章では愛着をもつコミュニティーの対象は「家族」「故郷」でした。家族大好き人間の私として…率直に述べてやはり愛着の強要は求めてないという意見です。別に理解してくれなくてもいいけどな💦と純粋に思います。

 ただしこのことを世間でおっぴらに話せる環境が整っているというのは事実。それが「正しいとも間違いとも示さないルールの中で確立している正義」のようなものが蔓延る社会だからこそ「家族愛」や「郷土愛」が社会の内に成り立っているのかと改めて再認識しました。家族や故郷というものに対する愛着を強要していなくても、それを大切にしている人が大切にしている人と出会ったとき「あなたはあなた、私は私」という風に割り切れるとは思いません。きっと、心のどこかで「可哀そうな、もしくは残念な人」でしょう。それこそ目に見えない差別そのものなんですね🌀

 

 それを教育のせい一択にするのは少し無茶があるような…②の部分で書きます。

 

 "差別"の話をしているとそれは主観的な気持ちであるはずなのに、社会や集団、組織など対外要素との関わり話に何度も戻ってきます。それで安心する感覚を求めて共有したくなるのだと私は考えます。縛られてるようで縛っている感じが人間らしいと思いました。

 

 

 他グループのスライドを見ていると「個人的な愛着コミュニティーに対する共感は✖」という意見が書かれていて、確かになと感じました。それは自分という基準があり、確固たる地位を築けているから。

 こちらは社会に認められているモノ(家族、故郷など)とは少し違う概念?むしろ認められていないからこそ、自分という裏切れない基準があるイメージを持ちました。承認欲求を超えて、自分だけの価値を大切にしたい気持ちもあるのかな…依存する対象が異なる論はグループでも話し合っていて、例えば文化祭の委員になった時の組織に対する愛着と共有したい気持ち(強要?)は責任なのか、達成感なのか。難しくて、②に話が移ってしまいましたが(笑)

 他を切り離したり、共感を求めて歩み寄ってみたり…つくづく人間は難しい😔

 

 

怠け者のB君を「人間として」尊敬しなさい、という言葉はなぜ問題なのか?

 

 グループではあまり話せなかった②。

 

 テキストではB君ではなく、A君に注目して「軽蔑」や利害関係を超えた「倫理観」について書かれています。上記や今回の哲学対話で中心話題になっている、制度では管理できない”悪意”による差別の芽の部分。”外形的には見せない軽蔑”という言葉が初見時よりもズシッと心に響きます。

 人間の手には負えないと早々に知ってか諦めか、そういう社会で柔軟に生きていけるような教育の究極が「みんな違ってみんないい」ならしょうがないのではないかと思う。違っていい社会への強要は確かに矛盾を感じるし、結局軽蔑や劣等感を生み出すとしても…今の私にはそれを受け入れていく教育しか知らないからうまく答えが出せないのがもどかしい。できる人とそうじゃない人、できない人。

 

 差別を推進することはなくとも、批判するでもない自分。私の拙い言葉でいってしまえば、そのバランスという簡単な集約されてしまうんです…仮に皆が協力的で比較せずとも社会としての集団意識を持たなかったとしたら、すごく独裁的な生活になってしまう気がする。(極論すぎだけど)やっぱりどこか批判する見方が必要だよな…そこに攻撃性を持たせてはならないのか?でもでもそれは教育や環境でどうにかなるものなのか…同じ場所でぐるぐると回っている感覚です🤔

 

 

 最近は何かと順位付けが問題視され「かわいそうだから」という意見が表立って取り上げられている。それを真に受けてボーとニュースを見ていたけど、今ならこの問題に立ち返ってもっと考えられる気がする。それが正しいとか間違いとかの判断にいくまで、こんなにも複雑な課題だと3週間かけて学べたから。

 

 ぐるぐる頭を悩ませながら、罪責感の意味が差別の紙一重、その判断材料になるのではないかと考えました。比較して突き放して、受け止めての繰り返すなかで組み立てられていく基準が罪責感に繋がると思う。きっと心のどこかで積もっている罪責感をいかに実感できるかというか。いやでも文面では書けるキレイゴトなんだろうな。

 

 

 難しい課題に取り組むんでいると、ふと話を盛って話しているのではないか?と分からなくなることがあります。ある意味言葉に頼ってつくろっているという…今回もその癖がでないように慎重に対話していったつもりだけどうまく出来たという実感はないです😫

 

 

 

 

📚 哲学から考える差別

 

 授業でこの話を初めて読んだときは(Ⓐ部分のみ)思いっきり訳が分からなかった。理解が追いつかないので当然のごとく『メウロコ・スゴドウ・ナツイカ・ハゲバツ』のリアクションもとれなくて…

 

 Ⓑ以降は例も多く、どうにか理解できそうな文章でした。しかしそこから哲学をどうやって考えていけばいいのかわからず、とりあえず筆者の意図を知る、自分の頭を整理するために雑ながらバババババーァッとノートに書きました。

 

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 整理した結果…やはり難しい💦

 

 

 『悪意の完全なる排除への懐疑』と『”悪意”ある差別への不信感』が述べられていると私は考えました。

 

 『悪意の完全なる排除への懐疑』はなんとなく理解できたように感じます。一方があることでもう一方が存在し、それは尊敬と軽蔑でもいえることで文化の芽生えへとつながるということ。確かに納得です🤔

 

 ただ後半の家族至上主義やアイデンティティの部分を考えるときに、筆者の差別概念が理解できなくなりました。潜在的な加害者という言葉を使っているのがすごく印象に残っていて「同情さえ差別なのか」と考がえるようになり、ますます頭がぐるぐる迷走します。

 

 個々であり、集団でもある私たちはそれを確立することで愛が生まれると同時に差別の温床になる。教育論で歴史的にみても日本が「家族」による繋がりを非常に重視してきたことは学んでいました。「家族」の存在を自己批判精神の喪失とまで言われると何とも悲しい気持ちになってしまう。(この悲しみの中にもどこかで「そうは思わない人」を軽蔑しているのか?🧐)

 

 集団に帰属する、している認識があるからこそ自分が自分として成り立っているのなら差別が生まれるのは回避しようがない事実。筆者の言う通り意識的なものも外的な要因によって変化させるのは不可能だと考えます。「善」「悪」の狭間で多数派が採用されて常識になっていくことが文化であるならば回避しようがないのでは。

 究極的に考えると文化が生まれるからとかではなく、人間は主観的でしか考えらない生き物なのだからという結論まで考えるようになりました。(客観的なものだって人間というフィルターを通したものだから主観と仮定してます)

 

 そもそも「不快」という概念を差別として一丸に丸め込むのもどうなのかとも思いました…掘り下げたい考えだけどうまく言葉にならない😖一要因として嫌悪感を抱いている状況だったらまた別の概念があるような気がします。いや、パーソナルな部分に集中して個人をみていると考えたらそれは軽蔑であり差別なのかな。難しい…

 

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 教育現場の問題が最後に述べられていますが、それぞれの意思を尊重しようと個性を大切にしようとも、必ず指標を示さなければならない場面は出てきます。そうするとどうしても多数派と少数派に分かれてしますし、順位や地位もあらわにならざるを得ないと思うのです。

 こんな私の考え方では「みんな個性があって素晴らしいこのなんだから差別するのはダメよ!」のセリフにはなんの効力もないじゃん。それこそ”穏やかなカタチで全ての人に共感をもとめる、凄まじい暴力”ともとれるのでは?

 

 

 最後に…自分の思いの6割くらいしか書けてないので不完全燃焼がすごい。哲学への理解を上回って哲学への自分なりの見解を述べることの難しさを痛感しました。

 

 いや〜悔しいなぁ。難しいなぁ。

 

 

 

📚 暇と退屈

 

 いきなり本題。

 

【暇とは何か?】

 

 

 ゼミでは↓を利用して、コロナ自粛である現在の状況がどの番号にあたるのか。ゼミ生それぞれが考えて報告し合いました。

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 私は③、ゼミ全体でも③の人が多かったです。シンキングタイムがあったとはいえ深く考えることなく③、まぁざっくりなんとなくの③。暇と退屈なんて感覚でしかない…ところを再度考え直してみるのが、そう❗️森田ゼミです。今回も今回とて悩むんだよ、楽しいけど難しい。

 

 

 『退屈とは… 自分がしている行為を楽しくないと感じることによって集中できない、それに伴って物事に対する意欲がわかない狀態』(エセ辞書風)と勝手ながら定義づけしました。本人の感覚です。前者だけでも後者だけでも足りなくて、その両方が合わさっているというのが大切なポイントかな?のちに私を悩ませる「暇」と対比させながら考えました。

 

〈余談〉

 私の母は配信初期からどうぶつの森で自分の村をせっせこ開拓しています🌲毎日毎日はにわをとったり、魚を釣ったり、木を揺らしたり…忙しそうです。残念ながらSWICH版ではなくスマホ版のやつなので、家を大きくできないしカブも植えられないし、チャイムの音も作曲できないと嘆きながら今日も虫を捕まえます。

 本人に聞いてみるとやはり楽しい訳ではないそう。でも1年以上毎日欠かさず開拓。楽しくなくても行為することに抵抗がなければ(母の場合はきっと今まで継続してきたことに対する使命感とルーティン?)それは退屈ではないみたいです。

 

 

 どうもこうも腑に落ちないのが「暇とは何か」。はじめはシンプルに『暇=なにもすることがない状況』と考えていました。しかし②さんの意見で混乱。②さん曰く🦥「趣味の時間でも、友達に呼ばれたら中断できるし…退屈ではないけど暇だなと感じる」

 

…んん?

 

 趣味をしているならそれは暇ではないじゃないか‼️私も趣味の時間を考量しながら「暇じゃないなぁ~忙しい忙し、はい③だな」だよ⁉️

 各自の価値観の違いでは?と言われればそれはまさしく正解だけれど…②も私も、暇と判断する境界線は少しは重なっているのか!?

 

 頭の中だけで②を想像するのも違う気がしたので、私の好きなテレビ番組「金曜日のソロたちへ」を見てみました。今週の金ソロは趣味が充実している方々ばかりで、きっと暇でないし退屈でない[③]が放送されていました。

   過去放送では「ゲームをする」という同じ条件下でも黙々と熱中する人、暇だなぁとボヤキながらプレイする人の両者がいたことを思い出し再生。DVD鑑賞中のヲタクさんでも同じでした。

 

 以上のことを踏まえて、私なりの解答は…

✖︎「暇≠何もすることがない状況」

『暇=何もすることがない状況、または行為が機会費用?よりも低い状況』

 

 何もすることがない状況は言わずもがな「暇」。ですがこれだけだと②が合致しないため、機会費用という言葉を使って別の説を立てました。こうゆう説明で機会費用と使っていいのか分かりませんが、③やテレビの中の暇ボヤキ人は、その行為で時間は埋められていてもそれに見合うだけのパフォーマンスが出来てないことを知っていた(潜在的に)状態だったのでは?と考えたのです。なにか他に用事があるなら中断できる、最もな行為ではないということです。

 

 これだと私(暇が嫌い/暇と感じない)にも理解できるのです。趣味の時間は暇が嫌いを埋めるための行為=最優先の行為、別に意識している訳ではないけど、あっそうだったのかな😳!?と納得できたのです。

 

 少し悩んだのは②で話し合い中「退屈って言いたくないけど、暇だわ~は言いたくなるよね」の部分。あの時の私には残念ながら理解できなかったこと。この定義で考えみることにしました。

 理解できない前提なので、定義寄りの理解になってしまい寄せすぎだとは思いますが、「時間が暇であること価値がある、暇が暇としてあることを良しとする」ということなのか?。することがない、しようとしないという自分がいることを知るがこの発言につながるのかな。あぁ分からない、まとめきれてないけど今の考えとしてひとまず追記しておきます。

 

 

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  退屈は感覚だから主観的、暇は時間との兼ね合いだから客観的。のように単純に考えてきたけど、暇こそ究極的な主観判断に基づいた感覚なのかもしれないと思いました🤨

 

 考えれば考えるほど映画の退屈、時間が一瞬で過ぎちゃう読書、寝そうで寝れない休日のハンモック、ついつい始めちゃう掃除とか…どんな時も紙一重で、いまのコンテンツは色々当てはまるように作られてるんだなぁと今更ながら感心💦笑

 

 悩みに悩んだうえで見つけた答えなので、他の人の意見と比べるのが楽しみです。

 

 

 

 

 

🎞 ショートフィルム

 

 以前のゼミで、いくちゃん大先生が紹介してくれたショートフィルムを拝見しました。もともと映画などの映像作品を鑑賞する習慣もないし、ショートフィルム自体初体験でした。

 

 最近今まで楽しいと感じていたことが、なぜか急にそうは感じられなくなりました。無理せずしない範囲で新しいことをしてみたり、数年前に没頭していた趣味を始めてみたりしましたが…それでもいまいちしっくりきません。

 これだけ自由な時間があって向き合える時間なのに、気力だけが飛んで行ったような自分がすごく嫌です。ゼミでの報告会ではそれぞれ自分の興味あることに邁進しているのにというモヤっとした気持ちが残るだけ。

 

 そんな中で今回の機会があったので、やけくそでも影響を受けてみようと思いました❗️『初見→いくちゃん先生解説→再度視聴』を基本に作品を拝見。感想とともに印象に残った2作品ほど。

 

 

Judith Hotel

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 紹介を受けて一番初めに鑑賞したショートフィルム。これを初めに視聴してからそれからも続けてショートフィルムの世界にお邪魔できたんだろうな、というくらい初心者でも分かりやすく気持ち悪さを感じるフィルム(褒めてます)。いくちゃん先生の紹介にもあったように起承転結、オチの部分まで構成が分かりやすくねられているのがそのポイントなのかな🤔フランス映画だけど字幕もついていることがありがたかった。

 

 話の流れにおいて上記では「分かりやすい」推しなんですが、よくよく考えると伏線が多くて難しく解釈もできるフィルム。結局のところオチの解釈は突然こちら側(視聴者)に投げられていて「え、あ、そゆことか!…ん、いやどうゆうことなん?」となること間違いなし(笑)

 序盤からホテルのシステム的なことの察しはつくんだけど、主人公の現実⇔夢(自由)の境が明確に描かれていない部分。青と赤がなぜか印象に残る映像、気持ち悪い一直線で個性豊かな登場人物。分かりやすい、んだけど分からない。モヤっと残る気持ちまでデザインされているんだろうなと感じました。これは何度も見ちゃうやつ😳

 

 

Right Place

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 こっちもこっちで癖強いな~作品(褒めてます)(デジャヴかな)。

 視聴中のモヤっと不思議な感覚はJudith Hotelと似たものがあるけど、終わった後のすっきり感はこちらが圧倒的でした。Right Placeはその名の通り主人公が自分のあるべき「正しい場所」を探すストーリーだけど、描かれているのはなんてことない日常。主人公の人柄や環境、すべてにおいて特別な設定でない分、ナレーションや画に集中して視聴できました。几帳面で敏感な主人公を映し出す計算された画角や耳に残る音楽は五感にきます。

 

 この作品はすごく哲学的な意味をもっているなという面白さを感じました。主人公は過度にその特徴が描かれているけど、人間誰しもある種の変態性はある訳で。その出し入れ加減が自然と「その人らしさ」として周り、自分自身でも認知されていく。これを前提として、生きるている中でつきまとう答えのない課題「自分の正しい場所」を説いていて胸にガツンときます。

 

 作品の中で興味深かったのが、「うまくいかないこともある。だけど僕はそれを不満に思ったりしない。なぜなら僕の周りのすべてのものに正しい場所かあるようにこの世界のどこかには僕自身にとっての正しい場所があるはずだから」という最後のシーンでのナレーションです。

 率直に「なるほど、そっちか」と感じた予定外のナレーションでした。文字だけだときれいな言葉で書かれたありがち理想論。でも世の中の作品の多くはみんな違ってみんないい論が推奨されているように思います。そのままのあなたが美しい、ありのままで素直でのような。でもこの作品の「正しい場所」は探さなくてはいけない場所です。それはありのままが素敵と称賛される場所かどうかは分かりません。

 誰かと会うことなのか、自分との葛藤なのか。仕事なのか趣味なのか。「適した」ではなく「正しい」という基準も何もないそのゴールに向かう主人公がありふれた日常のシーンの中で、とても強い存在に映りました。

 

 

 いくちゃん大先生の紹介がなかったら出会えなかった作品たちばかりです。いくちゃんありがとうございました🤝

 

P.S.

 勝手にいくちゃんとか言ってごめんね。初呼びはブログから失礼します。

 

 

 

📚 モリタゼミ

 

 コロナの影響でゼミ相談も直接できないそうな…

  きっと不安であろう新2年生さんに、1年たってダラけてる(かもしれない)私に向けてあの時を思い出しながらいろいろ書きます。意外と長くなってしまった…

 

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まずしたこと

 私は配布された資料?(ゼミ紹介がズラッと書いてある冊子)をよくよ〜く読みました。

 

《注目していたポイント》

①ゼミの活動内容

 ゼミ選びのベースになる部分なのでここはマストです❗️例えば商学分野でもマーケティング、会計、流通。さらにさらにその中でもデータに特化していたり、心理的要素を重視した内容だったり…きちんと読むことで違いが分かってきます。

 また、学外活動が多いのか、授業以外での交流があるのかなどは人間関係や出費に関わってくるのでこちらもよく見ておいた方がいいかと思います。

 

 多くの先生がいらっしゃって、全部読むのがめんどくさくなってしまうところでもありますが、読み切ることで「なんとなくこの内容は気になるな🤔」というのが見つかるはずです!

 

②先生の専攻学問

 ①と同じで、自分の興味を探ってみるイメージです。ゼミ選び時点で明確に自分の意思が決まってる人はあまりいないと思います。私は「なんとなくの興味」のままに◎・◯・△と優先順位を決めました。

 

③全体的な文章の書き方

 これは先生の人柄を少しでも知りたくて、今思えば自然と見ていたなぁというポイントです。

 

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続いてゼミ相談

 ちらっと友人や先輩にゼミの評判を聞いたこともありましたが…正直あてにしない方がいいと思います😅

 参考程度に頭に入れておくのはいいと思うけど、他人の主観での評価を丸呑みするのは危険すぎる。ここは行動あるのみで自分でゼミを見極めるしかないのです!

 

 といいつつ、私が直接ゼミ面接に行かせて頂いたのはお二方だけなんですけどね。私はざっくりとはいえ勉強したい分野が定まっていたので少ない方ですが、周りの人はもっとゼミ相談に行っていたと思います。

 後半になるにつれてゼミ相談の時間が埋まってくるので、なるはやで予約しておきましょう❗️予定が合わなくて先生に会えないのはもったいないです。

 

《注目していたポイント》

 上記で述べた①②③を直接先生の口から聞けるため、より詳しく知ることができます。何度も訪問するのも良いですが、無駄に何度も足を運ぶこと時間のロスだと思うので気になることがあれば事前に質問を準備しておくのをおすすめします☺️

 

※「何度か足を運ぶ方が印象に残るから有利」ということを当時チラホラ聞きました。が、個人的にそこまで効果はないかと…ゼミ相談に行き直接話をすることが必須!というゼミもあるので注意ですが、何度も訪問することがプラスに働くとはあまり考えませんでした😇

 

 ゼミ相談ではとても緊張したのを今でも覚えてます。私は一人だということもあり逃げ場がなかったし、訪問させて頂いた先生はどちらもはじめましてでしたし。まぁ変に印象に残ろうとせずによく話を聞いて、メモすることを意識しました。家に帰って忘れちゃうと意味ないので💦

 

 とにかく直接先生にお会いできるからといって、意識しすぎないのがポイントですかね(笑)主観でそのゼミを評価できる程度に話を聞いて、あれば質問して、ちらっとゼミ室にある本棚や机を見て先生の人柄を想像したりして…それで十分ではないでしょうか👌

 

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いよいよ最終決定、ゼミ決め

 決定打になったのは

・ゼミ内容と自分の興味が重なっていること

・実際にゼミに参加させて頂いて楽しかったこと

 昨年モリタゼミは模擬ゼミ?というか、新2年生が実際にゼミに参加できる機会を設けてくださっていました。その時のゼミ内容は「利己主義と利他主義について」です。哲学チックな感じが面白く、今までない考えを得られそうな…迷うことなくモリタゼミへの志望を決定しました。

 

 

モリタゼミってどんなゼミ

 最後になりますがちらりと紹介。実際に1年間ほど活動してみて…どんどん楽しくなるゼミです。funnyよりinterestedのニュアンスに近い”おもしろさ”を自分で育成できます。(英語が苦手なのであっているか分かりません。察してください)

 活動の中で意識するようになったのは「Why?」。「なんで」「どうして」人間の感覚の根本を考える作業は絶対的な正解はないので難しいですが、今までの私にはない思考回路で新鮮です。分からない、でもそれが楽しい。知りたい、だから行動しよう。そう前向きな感情が生まれるゼミ活動です❗️

 そしてそうした時にさっと活動場所を与えてくれるのもモリタゼミだと思います。某企業さんの学生プロジェクトや市域活性化活動の見学などの学外活動にも参加させて頂きましたが、これはゼミ活動時間外です。情報を与えてくださる中で個人的に参加したもの。それがきっかけで社会人の方と交流する機会になりました。ゼミはもちろん、プラスαで自分を伸ばせる場所。それをどう活用していくかは自分次第ですが、そういう意味も含めて成長につながるゼミだと思えます。

 

 

 うまく伝わっているか不安ですが、1年前と今では自分の何かに変化を感じています。思考回路だったり、行動にかける時間だったり、自分から飛び込む積極性だったりかな🔥

 こういう状況で、せっかくのゼミ選考を万全な環境でできないことは不安でしかないと思います。新2年生の力に少しでもなれれば幸いです。そしてモリタゼミを検討してくれている方がいれば、ぜひぜひウェルカムカモンです💪

 

 

 

🥐 ホットケーキ

 

 今日は4月12日。

 そうです、パンの日です。

 

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 1842年、今から178年前の4月12日に日本で本格的なパン製造が始まったことから制定されたパンの日。

 

 ちなみに4月4日はあんぱんの日でした。あんぱんの日は何もできなかったので、今日こそはと何か何か🌀

 

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 大量のホットケーキを製造しました🥞ここは人の手に頼らず自分で作るに限るだろうと!

 

 …いや、よく考えれば"ホットケーキ"はパンなのか?おうち時間が長過ぎて頭が働いてなかったのかもしれないです。冷静に考えれば何がパンなの?

 ここでいま一度、確認‼️

 

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パンの定義

⚫︎イネ科植物の小麦粉を粉状にして、砂糖、塩、油脂などを合わせて、加工したモノ

⚫︎主原料は、小麦粉(穀物の粉)、塩、イースト、水であり、副材料として糖類、乳製品、卵、油脂などを混ぜて捏ねて作った生地を発酵させて加熱したもの

 

パンとは? 主食 日本政府のパンの定義 | pan-koubou

 

ホットケーキミックスとは

⚫︎小麦粉をベースに、ホットケーキを焼くために必要な材料(砂糖、ペーキングパウダー、油脂など)を予め調合した粉末材料

 

森永製菓株式会社 - おいしく、たのしく、すこやかに

 

 

 

ホットケーキとパンケーキの違い

 ⇨絶対的な違いは無く、諸説あり

《森永製菓の見解》

 ホットケーキは小麦粉、卵、牛乳、砂糖などを混ぜて、フライパンなどで円形に焼いたもの。甘くて、厚みのあるもの。一方パンケーキは砂糖不使用で甘くなく、食事に合うような品質のもの。

森永製菓株式会社 - おいしく、たのしく、すこやかに

 

 

 

《フランスの歴史より》

 パンケーキとはフライパンなどで焼いたケーキの総称。フランス語の「パヌケ」(pannequet)が英語のパンケーキにあたり、クレープ生地でクリームなどを巻いた甘いものから、前菜にもなる塩味系のものまで幅広い。つまりはパンケーキの中にクレープもホットケーキも含まれる。

 

「パンケーキ」と「ホットケーキ」 - 違いがわかる事典

 

《パンケーキの発音より》

 1884年に雑誌で「パンケーキ」とはどんなものか紹介され、1923年に東京のデパートの食堂で「ハットケーキ」という名前で出されたのが始まり。

 

パンケーキ?ホットケーキ?歴史の始まりから各国の違い、最近の流行まで | オリジナルパンケーキハウス−東京 吉祥寺・原宿・博多・なんば

 

 

  なんともモヤモヤした説明ばかりでした😒それくらい個人的見解で良いって事なんでしょうかね(笑)

 

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  今回はプレーンと抹茶の2種類。トッピング王道のバター、メープルシロップ、ジャム、あんこで。自分で作るなんて何年ぶりだろう😕楽しいもんですね〜

 

 ここまで小麦愛を爆破させながらも…実は病院から小麦禁止令が出てるんですよ💦毎朝パン派の方々が本当に羨ましい限り。

 私の身体だと小麦の消化がうまくいかないようなんですよ。なのに連日のように何してるんだ私は(笑)

 

   いままでは週1〜2で我慢してたけど、家にいるストレスがたまるとパン食べたくなるよね…きっと体調を崩すこと間違いなしっ

 

 

 

 

 

🥐 take a sandwich

 

 『春の餃子祭り(第二回)』と題して餃子店を巡り歩き、お供にはアルコール。翌日から胃の調子が優れずなかなか思うように食事ができなかった近況でした。ちなみに顔はむくみでパンパン、いやパンッッパンッパン😳

 

 少しずつ胃が回復しつつあったので、取り急ぎのパン補給。今回はアルバイト休憩中ということもあり、西鉄天神駅TORIO内と便利な立地に店を構える『take a sandwich』さんへ。

 

 

□take a sandwich

 

 take a sandwichさんは、薬院大通駅近くの『THE SANDWICH STAND』さんの姉妹店。本店で作られたサンドウィッチや焼き菓子が駅店舗に運ばれてくるスタイルで営業しています。私がお店に伺ったのは夕方だったのですが、品揃えが多く驚きました❗️ほぼフルラインナップ。午後に追加で運ばれてくるのかわかりませんが…夕方のパン難民にはありがたいお店です。

 

 THE SANDWICH STANDといえば、”かぼちゃとローストビーフのサンド”が有名。サンドウィッチが好きになったきっかけでもある思い入れ深いお店です。ここのお店のサンドウィッチは何といっても種類の多さとずっしり感!!個人的にサンドウィッチに求めるのは、スタンダードな美味しさではなく挑戦的な組み合わせなのですが、こちらのお店は予想をこえたラインナップで毎回選ぶのに迷いまくりです。

 

 今回選んだパンは”南瓜サラダと厚切りハムカツ”。朝から何も食べてなくてやっと休憩がとれた午後4時。がっつりしたものを求めていた私にぴったりなサンドに気分上がりまくりです。

 

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 持った瞬間から伝わるこのずしっ感。ふわふわゼロの重量感がたまりません。

 

さてさて…

 

ガブッ

 

 

 

 

 

 

 

 いやぁ、美味しい😭食べ応えは十分にありながらも意外とすっきりとした味付け。厚切りなだけにハムカツの存在感はあるものの重く感じられず、サンドとして成り立っているのがとっても好み。南瓜サラダはあまり味付けを足してないように感じました、南瓜を生かしたシンプルなサラダ。だからこそカツソースの辛さが相性抜群で食欲をそそる~🤤

 

 いや、そもそもサンドで最初の一口から味が成立する時点で素晴らしいではありませんか!端から端までギッシリ具材が詰め込まれてる証拠です。はい、好き!

 

 インパクトの強いもの同士の組み合わせが成り立つのは、味付けはもちろんだけど…「サンドウィッチ」として提供することに尽きるんだと思うんです。言い方を変えると焼き立てホカホカのパンでは、味がぶつかりすぎてコラボの複雑さが悪く出てしまうということ。

 冷めたて理論でもいえることですが、パンにあえて焼き立てを求めないことで、味が落ちついたり生地との一体感が増す現象があると私は考えます。そのひと手間がうまみを倍増させて新たなパンのカタチの一品となる…だからサンドウィッチはやめられない~!!

 

 

 今回は「素晴らしきかな、サンドウィッチ編」で書いてみました。いくらでも想いはあるのでできるだけ端的に伝わりやすく。ブログのことを頭に置いていると食べている時も食レポする気持ちで色々と考えます(笑)自分の語彙力と日本語の難しさに格闘しつつも楽しんで更新していこうと思います。