izaharu’s blog

福岡大学/商学部 商学科/モリタゼミ所属

📺 ミヒャエル・エンデ『モモ』

ミヒャエル・エンデ 児童書『モモ』

 毎週録画しているNHKの一つ「100de名著」。今月はミヒャエル・エンデの『モモ』だった。大学で学んできた哲学・教育分野と重なる部分が多く興味深かった。流れの中の区切りとして論点を2つ書こうと思う。

 

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論点① 効率至上主義から生まれる価値とは

 時間節約銀行マンとして人々に時間の倹約を推奨し、空いた時間を奪っていく通称灰色の男たち。(効率至上主義を象徴する登場人物)物語ではポップに描かれているけど、現在の世の中を風刺していると作品ともいえる。効率的、便利…それそのものの魅力を否定する訳ではないが、それを至上として固定化しては失われる質的価値があるという表現だと私は捉える。この質的価値2つの場面から考えてみた。

 

 1つは前期で言えば「雑談が持つ意味」などに近いもの。本来的なことに付随する、むしろ一見関係のない時間の使い方が意外なパワーを秘めいているということだ。ここでは情報の共有や人間関係の構築などという意味合いで使われていた。

 講義中も私はこの考えに共感した。雑談だけではないが、いわゆる“回り道”のルートも振り返ると舗装された一本の道になっていることが多い。むしろ私の人生を振り返ってどれが本筋かわからないほど、どんな要素も互いに相互作用しあって今の自分があるように思うからだ。

 

 2つ目は「空白の時間がある(=質的価値)ことから生まれる余裕。モモが表現しているのはこちらに近い感じがするんだけど…言葉にできない💦それにこの境目が個人的にはすごく繊細だと考える。それは空白の時間は人を不安にさせることもあるから。私が特にそうであるように、なんとなく虚無感を覚えるのだ。なぜか分からない漠然とした焦りは私だけじゃないと思ってる…

 

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(余談)時間があるが故の余裕と不安がバチバチしている。これが私にとってすごく居心地の悪いものだったから、コロナ期間中から家に時計を無くしてやりました。必要不可欠だと思ってたけど、心が楽になっている気がする。

 時間に追い越されるような急かされるストレスがなくなったからかな?実際、前後で生活スタイルはあまり変わらない。体内時計で測っていたようで食べるのも寝るのもお勉強も。

 なにかをなくすことで縛られてたルールに気づいた。時間は有限だし意識しないことで効率は下がったかもしれないけど、今まで以上に充実して満足した生活が送れているように思える。

 

 時間の概念でいえば、モモにも近しい概念が提示されていた、「時間を制御するか、時間に制御されているか」という考えだ。何を犠牲にしているのか、どんな価値を生むのかという概念の考え方。操るはずが操られて、もう戻れないというバイアスにかかっていたのかもしれない。結果的に自分も時間も犠牲にして、何を手にしたのかさえ分からなくなるのは自爆行為だったのかもしれない。

 だけど、『"(時間に限らず)ない"状況を受け入れることは未知で恐怖』なのは心理としてあると思う。だからこそ「何かを手にすることこそ正義」のように考え、草々な手立てとして効率性に行きついてしまうのも納得だ。質的な視点で考えると、時間に責任を負えないないから、容易に制御できる存在は都合がいいのだ。(時短、効率性など)でもそれではダメな時もきっとある。作業の結果として意味がない結末だとしてもそれを成果として更新していくことが大事だと改めて気づく(ゼミでおっしゃっていた記憶があるな🤔)

 

 何かに取り組むときに↑まで意気込まなくてもよいけど、ことに犠牲になってしまう私にはふと立ち返る瞬間を作ることが良い策かも。±ではなく、一定以上の成果が得られると思うからだ。

 

 登場人物のカシオペイアは「オソイホドハヤイ」という言葉を残した。あとになって気が付くことなんだろうけど、その意味に気づけるまでオソサと向き合い、試行錯誤してみるのも悪くないな。

 

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論点② 人生の効率性

 考えは①と同じだけど、就活という選択肢から論じてみた。謎の不安感が徐々に大きくなっていくであろうこれからの時期。「自分は何に向いているのか、何がしたいのか」が分からず、もやもや。確信が持てないというのが悩みの種の一つであることは間違いない。それに対する見方の一つとして『自分の適性通りの人生≒効率的≒人生の効果的』をモモが示した。

 目標がある人見るとなんだか輝いて見えて、自分の不甲斐なさを感じてしまったり。自分の正しさ(適正)を知らず活動している自分がどう映っているのか気になったり。そういう比較の中で生きていた自分を再認識させてくれた良い機会になった。近道だけの時間よりも偶然性を楽しめる人生観もある、と教えてくれたのだ(めちゃ、薄い表現になってしまった💦)。それ100%鵜呑みにはできない頑固頭だけど、そういう風に思う場面もあっていいのかもと個人的には大きな変化だった。

 

 就活イベントの形式で“玉手箱”になぞらえたものを知っている。それはあえて企業名を伏せて1週間毎日1社の紹介や交流をするというものだ。強調されていたのは出会いのワクワク感だったが、今思えば偶然の出会い(というか出会いは基本偶然か)に価値×就活は本来大規模就活イベントで生まれていた現象だ。コロナの影響でオンライン説明会・インターンばかりでそれが私たちの“通常”だったけど、例年はそういう出会いもあったのかと気づいた。

 

 オンライン開催による距離関係なく参加できるメリットはかなり大きい。しかし同時に選択肢や視野を自分自身で狭めているのかもしれない。これまでの就活生以上にまずやってみるの行動力が試されている。私にできるのだろうか…いや、するしかない!!

 

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 どんな人も特別なスペックがない限り(時を止めちゃう系)時間は等しくて有限だから、なるべく効果的に効率的に生きていたい。だから世間が気になるし、達成できない自分に悩んでしまうのは図星なところ…そこから成長することもたくさんあったから、その側面も忘れず。

 でももっと客観的な俯瞰したモモの視点から考えてみるのも悪くないなと思えた。